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猫と女性を描くことで有名な、藤田嗣治(ふじた つぐはる)展に行って来ました。
< 没後50年ということで、京都国立近代美術館に、代表的な作品がたくさん展示され、見応えがありました。 2018.12.16(日)まで開催されます。 藤田嗣治をあまり知らない方のために、簡単にまとめてみました。 独自の技法で描かれた美しい「乳白色の肌」の秘密は、なんでしょうか? なぜ、藤田は、猫を描くようになったのでしょうか?

日本からフランスへ

1886年東京に生まれます。父親は、現在の東京大学医学部で医学を学んだ軍医でした。

藤田嗣治は、子どもの頃から絵を書き始め、1905年、森鴎外のすすめもあり、現在の東京芸術大学美術部に入学します。

藤田は、画家になることを父親に相談しますが、父親は、反対することはなく、お金を出してくれたそうです。

当時の日本は、印象派がもてはやされ、藤田の作品は不評だったようです。

1913年、藤田は、新しい世界を求めて、フランスへ渡ります。。

パリでは、モンパルナスに住み、当時のモンパルナスには、画家が多く住んでいて、画家仲間を通じて、ピカソとも交友を結びます。

「キュビズム静物画」ポーラ美術館所有では、藤田の日常の愛用品を静物画にするという、今までにない発想を取り入れます。

藤田嗣治の「乳白色の肌」の秘密

藤田は、絵を描くにあたり、誰もチャレンジしていない、白色を主役の色として表現していくことにこだわりました。

白色をうまく表現するために、絵の具に色々なものを混ぜました。

作りだされた白色の上に、面相筆(穂先の極めて長細い筆)に、墨をつけて、細い線で、輪郭を細かく描いていきます。

白い絵の具と墨で描かれた細い黒い線。

白と黒のコントラストで、女性の肌は、より白く、はっきりとした輪郭の中に、映し出されます。

藤田は、白い色をうまく出すために、絵の具に、シッカロールを混ぜて使っていたと、後に知人が伝えています。

他にも、いろいろ混ぜていますが、「乳白色の肌」の秘密は、とても身近にあるものを使っていたんですね。

藤田が、なぜ猫の絵をたくさん描くかについては、パリで、捨て猫を拾っては、家に連れて飼っていたそうです。

そのうち、モデルが来ない時に、拾った猫を描くようになったそうです。

藤田は、

猫と女性は似ている

と、フランスの記者に語っています。

1925年、藤田は、フランスやベルギーから勲章を送られます。

こうして、藤田は、エコール・ド・パリ(パリ派)の代表的画家になりました。

戦争に翻弄された人生

藤田は、第一次世界大戦、日中戦争、第二次世界大戦と戦争に翻弄されます。

時代は、画家たちに、戦争の絵を描くことを求めます。

藤田は、戦場の悲惨さを大きなキャンパスに見事に描いています。

それは、戦争を謳歌するものではありませんでした。

が、戦争に協力したものとされ、日本を去ることになります。

藤田は、それから、フランスに帰化し、フランスで亡くなります。

藤田は、存命中には、日本で認められることは、ありませんでした。

しかし、没後、作品の価値が認められ、日本でも展覧会が行われるようになりました。

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フランスでの晩年の人生

1959年、日本人の妻とともに、カトリックの洗礼を受けます。

洗礼名は、尊敬するレオナルド・ダ・ビンチからとり、レオナール・フジタ。

フジタ礼拝堂を作り、壁に宗教画を残しています。

1968年に81歳で亡くなり、フジタ礼拝堂に埋葬されます。

まとめ

藤田は、日本を飛び出し、パリで、日常品を静物画に取り入れたり、白色を主体とした新しい作風を生み出し、人気画家となります。

猫を描く画家としても、名声を得ます。

しかし、戦争のため、日本に帰国し、戦争絵画を描くことになります。

戦後、戦争の絵画を描いたことにより、誤解を受け、日本を追われます。

フランスに帰化し、カトリックの洗礼を受け、宗教画を描くようになります。

藤田が生きている間は、日本で認められることはなく、没後、評価を受け、日本でも、展覧会が行われるようになります。

参考
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